【叶家のうわさ】宿泊客が実は・・・
叶家にはいろんなお客様がいらっしゃいます。
80歳を超えた大女将のツネ子さんに聞けば、色んな話が飛び出します。
その中の一つを今日はお伝えいたしましょう。
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「ねえ、曾野綾子さんって知ってる?」
チェックインのとき、ふと女将・ツネ子が声をかけてくることがあります。
知らないと答えると、「ほら、“無名碑”とか“湖水誕生”とか書いた作家さんよ」と、うれしそうに教えてくれます。
実はその『湖水誕生』、初版が出たのは1985年──もう40年も前のことですが、なんと叶家の一室で執筆されたという、ちょっとした“うわさ”があるのです。
しかも舞台は「牡丹の間」。当時はまだ質素ながらも静かで落ち着いた部屋で、曾野さんは数日間、そこで籠って筆を進めたそう。
「いまはリニューアルしちゃって、もう部屋の面影はないんだけどね」
そう笑いながら、ツネ子はどこかうれしそうに言います。
「でもね、不思議とあの部屋、“何かを書きたくなる”って人が多かったのよ」
その後も、日記を書き始めた人、小説を書きたいと言い出す人、急に手紙を出すと言って便箋を買いに行く人…
まるで部屋に“言葉の種”が残っているかのように、不思議とペンを取りたくなるのだとか。
「叶家って、そういう宿なの。人生の途中で、ちょっと何かが始まるような場所」
ツネ子がそう語るとき、まるで時間そのものがゆっくりになるような気がするのです。
今ではリニューアルされてしまった牡丹の間。でもその空気は、きっと宿全体にしみ込んでいるのでしょう。
だからなのか、いまでもふとした拍子に聞こえるのです。
紙をめくる音。ペンが走る音。誰かが、何かをはじめる音が。
そして今日もまた、「書きたい何かを見つけた気がする」と笑って帰っていくお客さまがいるのです。